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第4話 人間嫌いの竜皇女

last update publish date: 2026-09-11 10:42:12

第4話 人間嫌いの竜皇女

「おまえを、私の監視下に置く。拒むのなら、ここで殺すしかない」

 氷の剣を引いたリシアは、選択肢を与えたつもりなのかもしれない。しかし、片方を選べば殺されるという条件は、普通なら選択とは呼ばない。

 俺は毛布を体へ巻いたまま、焚き火を挟んで彼女を見つめた。

「つまり、竜帝国へ一緒に来いということか」

「おまえは竜殺しの鎖を解除し、始原語を書き換えた。私の魂語を聞き取れることまで含めれば、帝国にとって放置できない存在だ。おまえが王国へ戻るつもりはないと言っても、それを証明する方法がない以上、私の目が届かない場所へ行かせるわけにはいかぬ」

「言いたいことは分かるけれど、監視下に置かれる俺の側に、何か利点はあるのか。竜帝国へ行った途端、牢へ入れられて、知っていることを全部話した後で処刑されるのなら、ここで殺されるより少し時間が延びるだけだろう」

「おまえの身の安全は、私が保証する」

「数分前まで俺を殺そうとしていた人から言われても、あまり安心できないな」

「殺そうとしていたのではない。必要なら殺せると示していただけだ」

「剣を喉へ押しつけられた側からすると、その違いはかなり分かりにくい」

 リシアの眉間へ皺が寄った。

 口では反論しようとしているが、魂からは、『確かに私の説明にも問題があったかもしれないが、この状況で素直に謝れば、最初から殺すつもりなどなかったと認めることになる』という、ひどく面倒な葛藤が聞こえている。

 どうやら第三皇女という立場は、謝罪一つにもそれなりの覚悟を必要とするらしい。

「分かった。竜帝国へ行く。ただし、いくつか確認させてくれ」

「妙に簡単に決めたな。人間であるおまえが竜族の国へ入れば、命の保証などないと分かっているのか」

「ここに残っても、王国軍に見つかるか凍死する。選べる道が二つしかないのなら、少なくとも俺を助けようと考えている人と一緒に行くほうを選ぶ」

「誰が、おまえを助けようと考えていると言った」

「口では言っていない。でも、魂の声では、俺が拒まないように祈っていた」

「それをいちいち口にするな!」

 リシアの声が洞窟へ響き、天井から細かな氷が落ちてきた。

 焚き火の炎まで揺れたため、俺は慌てて両手を上げた。

「悪かった。今のは俺が余計なことを言った。今後は、聞こえた内容を何でも口に出さないようにする」

「今後ではなく、最初からそうしろ。魂語は、日常の会話として他者へ聞かせるものではない。自分でも整理できていない感情が漏れることもあるし、そのとき本気で考えていたとしても、後から考えが変わることだってある」

「それは人間の言葉も同じだな。腹が立った勢いで言ったことを、いつまでも本心として扱われるのは困る」

「分かるのか」

「分かる。俺も、怜央たちへ言わなくてよかった言葉を、昨日はずいぶん口にした。今でも間違っていたとは思っていないけれど、もう少し別の伝え方があったとは思っている」

「おまえを雪原へ捨てた者たちにまで、そのような気遣いが必要か」

「必要だったかどうかは分からない。でも、相手がひどいことをしたからといって、自分まで何をしてもよくなるわけじゃない。そう考えないと、どこからが復讐で、どこからが八つ当たりなのか分からなくなる」

 リシアは呆れたように俺を見た。

「おまえは、人間王国を恨んでいるのか、いないのか、どちらなのだ」

「恨んでいる。できれば、俺を追い出したことを後悔させたい。でも、無関係な人まで苦しめたいとは思わない。自分でも面倒だと思うけれど、人間の感情なんて、普通は一つに決められないだろう」

「確かに面倒な男だな」

「あなたにだけは言われたくない」

「なぜ、そこで私が出てくる」

「人間は信用しないと言いながら俺を助け、殺すと言いながら竜帝国へ連れていこうとしている。俺よりずっと話が複雑だ」

 リシアはすぐには反論しなかった。代わりに、羽織っている俺の外套を胸元でかき合わせ、少しだけ顔を背けた。

『自覚がないわけではない。しかし、どうすればよいのだ。信じると言えば裏切られたときに傷つくし、信じないと言えば、この男が寂しそうな顔をする』

 その魂語を聞き、俺は何も言わず焚き火へ薪を足した。

 すべてを本人へ伝える必要はない。俺が彼女を理解するためだけに胸の内へしまっておくことも、今後は覚えなければならないのだろう。

「それで、確認したいこととは何だ」

「まず、竜帝国へ着いた後、俺を牢へ入れるのか」

「その可能性はある。私が保証できるのは、理由もなく殺させないことだけだ。帝国の民は人間を嫌っているし、私が王国軍の罠にかかった直後に、おまえのような人間を連れ帰れば、間者だと疑われるのが当然だろう」

「ずいぶん正直だな。都合のいいことだけを並べて連れていくつもりだと思っていた」

「おまえにだけは言われたくないが、私は嘘が得意ではない。そもそも、魂語が聞こえる相手へ嘘をついても意味がない」

「それなら、もう一つ聞く。あなたは、本当に俺を生かすつもりなのか」

 リシアは青銀の瞳で俺を見つめた。

 今度は魂語を聞くまでもなかった。

「生かす。おまえは自分の命を危険にさらして私を救った。竜族は受けた恩を忘れぬ。たとえ帝国の法や母上の命令と争うことになっても、少なくとも私自身がおまえの命を奪うことはない」

「分かった。それなら信じる」

「……それだけか」

「これ以上、何か必要なのか」

「私の言葉を疑い、契約や証拠を求めると思っていた。先ほどまで、私が殺そうとしていたことを持ち出して文句を言っていただろう」

「文句と疑いは別だ。あなたの言葉と魂の声が、今は同じことを言っている。それなら、俺にとっては十分だ」

「そのように簡単に他人を信じるから、おまえは仲間に利用されたのではないか」

「否定できないけれど、今ここで言うことか?」

「同じ失敗を繰り返さぬよう忠告しているのだ。私が助けた直後に別の者へ裏切られて死なれては、目覚めが悪い」

 少しだけ柔らかくなりかけた空気が、リシアの不器用な忠告によって台無しになった。

 もっとも、彼女なりに俺を心配していることは伝わっている。俺も人のことは言えないが、素直に相手を気遣えない者同士が一緒に行動すれば、ずいぶん疲れる旅になりそうだった。

「最後に、俺の外套を返してほしい」

 リシアは警戒するように俺を見た。

「私からこれを取り上げて、おまえは何を着ろというのだ」

「言い方が悪かった。あなたが服を用意できたら返してほしい。寒いというのもあるけれど、この外套は追放されたときに残った唯一の持ち物なんだ」

「先ほどは、唯一の財産だと言っていたな。私が着たことで価値が下がったとでも言いたいのか」

「そんなことは言っていない。むしろ竜帝国の皇女が一日着たのなら、王国で売れば高値がつくかもしれない」

「売るつもりなのか!」

「冗談だ。今のは冗談だから、剣を作ろうとするな」

 リシアの指先へ青白い光が集まり始めたため、俺は慌てて訂正した。

 彼女は不満そうに光を消すと、外套の内側へ手を入れ、首元に残っていた一枚の銀色の鱗へ触れた。鱗が淡く輝き、糸のように細くほどけていく。

 銀色の糸は彼女の体へ巻きつき、白と青を基調とした長衣へ変わった。胸元や腰には竜の鱗を思わせる意匠が入り、肩を覆う布には皇族の紋章らしい翼の模様が浮かんでいる。

 魔法で衣服を作り出したらしいが、完成と同時にリシアの顔色が少し悪くなった。

「無理をしたのか」

「この程度で無理などしていない。魔力の大半を鎖に奪われたため、竜鱗衣を再生させるのに時間がかかっただけだ」

「それを無理と言うんじゃないのか」

「人間の言葉の定義を、竜族へ押しつけるな」

 外套を返してきたリシアは、立ち上がろうとしてわずかに体勢を崩した。俺が反射的に腕を伸ばすと、彼女はその手を避けようとしたが、今度は本当に倒れそうになり、結局、俺の肩をつかんだ。

「触れるなとは言わないのか」

「私から触れているのだから問題ない。それに、支えとして利用しているだけだ。妙な勘違いをするな」

「今の状況で恋愛的な勘違いができるほど、俺も楽観的じゃない。あなたを助けてから、殺されかけて監視対象にされたばかりだからな」

『確かに、私の態度にも問題があるのかもしれない。しかし、助けられたからといって急に親しく接すれば、軽い女だと思われるのではないか。そもそも、人間の男とは、どれくらいの距離で話すものなのだ』

 人間嫌いというより、男性との接し方が分からないだけではないのか。

 そう思ったが、本人の名誉のために口にはしなかった。

     ◇

 洞窟を出ると、吹雪は昨夜より弱くなっていた。

 空には切れた雲の間から朝日が差し、雪原が眩しいほど白く輝いている。リシアは周囲を警戒しながら、岩山の上へ視線を向けた。

「帝国の捜索隊を呼ぶ。人の姿のままでは移動に時間がかかるが、今の体でおまえを乗せて飛べば、途中で墜落する可能性が高い」

「俺は軽いほうだと思うけれど、それでも無理なのか」

「体重の問題ではない。竜殺しの杭で翼の根元を傷つけられた。私一人なら滑空できるが、おまえを落とさぬよう飛ぶのは難しい」

「落とす可能性を考えてくれたことには感謝する。何も言わずに乗せられ、空の途中で振り落とされるよりはいい」

「私を何だと思っている。竜族は、背へ乗せた者を簡単に落としたりしない」

「それなら、落とさないよう飛ぶのが難しいという説明と矛盾していないか」

「うるさい。私にも、できることとできないことがある」

 リシアは苛立ちながら空へ片手を掲げ、青白い魔力を細長い竜の形へ変えた。光の竜は甲高い鳴き声を上げると、北の空へ飛んでいく。

 それから一時間ほど待った頃、遠くの雲間に黒い影が現れた。

 一つ、二つではない。

 十を超える竜が翼を広げ、風を切り裂きながらこちらへ近づいてくる。その中心にいる黒竜は、白銀竜だったリシアより一回り大きく、背には鎧を着た数人の竜族が乗っていた。

 俺は思わず一歩後ろへ下がった。

「安心しろ。帝国の近衛隊だ」

「あなたの知り合いだとしても、俺にとっては敵国の竜だ。安心するには、もう少し時間が必要だと思う」

「私を前にして平然と近づいた男が、今さら何を言う」

「あのときのあなたは鎖に縛られて動けなかった。自由に空を飛んでいる竜が十頭以上いる状況とは違う」

「最初から怖くなかったわけではないのか」

「怖くても助ける必要があると思っただけだ。俺は英雄でも何でもないから、怖いものは普通に怖い」

 リシアは少し意外そうに俺を見た後、わずかに表情を和らげた。

「それでよい。何も恐れぬ者は勇敢なのではなく、危険を理解できぬ愚か者だ。私の近くにいれば、少なくとも勝手に殺されることはない」

「ずいぶん限定的な安心だな」

 黒竜が地面へ降り立つと、積もっていた雪が激しく舞い上がった。

 翼を畳んだ黒竜の背から、灰色の髪を短く整えた大柄な男が飛び降りる。黒銀の鎧をまとい、腰には人間のものより幅広い剣を下げていた。年齢は四十代ほどに見えるが、額に伸びた黒い角と鋭い金色の瞳から、人間ではないことが分かる。

「リシア殿下!」

 男はリシアの前へ駆け寄り、片膝をついた。

「ご無事で何よりでございます。殿下の魔力反応が途絶えたと報告を受け、近衛隊を総動員して国境を捜索しておりました。傷を負われているようですが、いったい何が……」

 男の視線が、リシアの隣にいる俺へ移った。

 安堵していた表情が一瞬で消え、腰の剣が抜かれる。ほかの竜族たちも次々と武器を構え、俺を取り囲んだ。

「人間が、なぜ殿下のおそばにいる」

「待て、ヴァルガン。この男は敵ではない」

「人間が殿下へ竜殺しの杭を打ち込んだのでしょう。それなのに、敵ではないとおっしゃるのですか。殿下がお優しいことは承知しておりますが、情けをかければ、その隙を利用するのが人間という種族です」

「この男が、私を竜殺しの鎖から救った。命を差し出す覚悟で始原語を書き換え、私の拘束を解除したのだ」

 ヴァルガンと呼ばれた男は、リシアの言葉を聞いても剣を収めなかった。

「人間が始原語を書き換えるなど、あり得ません。殿下を信用させるため、自ら仕掛けた罠を解除したように見せかけたのでしょう。あるいは、鎖によって判断力を奪われている可能性もございます。まずは人間を拘束し、殿下の状態を詳しく調べるべきです」

「私は正気だ。何度言わせるつもりだ」

「正気であるとおっしゃるからこそ、判断を疑わなければなりません。殿下は人間を誰よりも憎んでいた。それが、得体の知れない人間をかばって帝国へ連れ帰ろうとしているのです。異常を疑うのは、近衛隊長として当然の務めでございます」

 ヴァルガンの言葉は無礼に聞こえたが、リシアを本気で心配しているのだろう。彼女もそれが分かっているから、力で従わせようとはしなかった。

「俺の手を縛ることには反対しない。竜帝国へ入る以上、警戒されるのは当然だ。ただ、武器は持っていないし、怪我人だから、あまり強く締めないでもらえると助かる」

「人間、貴様に発言は許していない」

「発言を禁じるなら、先にそう言ってほしかった。俺には竜帝国の作法が分からない」

「見え透いた態度で警戒を解こうとしても無駄だ。殿下から離れろ」

 ヴァルガンが俺の腕をつかもうとした瞬間、リシアが間へ入った。

「触れるな。この者の扱いは、私が決める」

「殿下、しかし……」

「私が帝国へ連れて帰ると決めた。異論があるなら、皇城へ戻った後、母上の御前で申し立てろ」

 その言葉で、ひとまず俺は処刑を免れた。

 ただし、両手を前で拘束されることまでは避けられず、俺はリシアとともに黒竜の背へ乗せられた。ヴァルガンは最後まで俺を警戒し、わざわざ自分たちの間へ座らせたうえで、腰へ命綱まで巻きつけた。

「俺が殿下へ危害を加えると思うなら、同じ竜へ乗せないほうがいいんじゃないか」

「黙れ。この高さから落ちれば、人間の体など原形をとどめぬぞ」

「脅しているつもりなら、先に命綱を結んだことと矛盾している。落とす気がないなら、普通にそう言えばいいだろう」

「貴様は、囚われている自覚があるのか」

「昨日から何度も命を脅かされているせいで、少し感覚が鈍っているのかもしれない」

 ヴァルガンは心底面倒そうに顔をしかめた。

 少し離れて座っているリシアは、呆れた顔を作りながら、魂語では笑いをこらえていた。

『ヴァルガンを相手に、これほど遠慮なく話す者は初めてだ。私以外の相手にも同じ態度なら、少なくとも私だけが軽く扱われていたわけではないらしい』

 彼女が気にするところは、そこなのか。

 黒竜が助走をつけて翼を広げると、巨大な体が雪原から浮かび上がった。急激に高度が上がり、岩山も雪原も、あっという間に眼下へ遠ざかっていく。

 竜の背に乗って空を飛ぶのは初めてだった。

 冷たい風に顔を打たれ、命綱につかまりながら周囲を見ると、白い山脈の向こうに、見たこともない巨大な都市が現れた。

 黒い山々を削って造られた城壁は何重にも連なり、その内側には銀色の尖塔が立ち並んでいる。谷間には青白く輝く川が流れ、空には人の姿をした竜族と巨大な竜が行き交っていた。

 都市の中心にそびえる皇城は、山一つをそのまま宮殿へ変えたような規模で、頂上付近には翼を広げた竜の像が見える。

「ここが、ヴァルドレイク竜帝国の帝都だ」

 リシアが風に負けない声で告げた。

「人間が正式な許可なく、この景色を見ることはない。よく覚えておけ。おまえが生き残れるかどうかは、ここからのおまえ自身の言葉にかかっている」

「通訳としては、ずいぶん皮肉な状況だな。他人の言葉を伝えるのは仕事にしていたけれど、自分の命を守るために話すのは得意じゃない」

「知っている。おまえは自分のことになると、すぐに諦めようとするからな」

「出会って一日しか経っていない相手に、そこまで言われるとは思わなかった」

「一日で分かるほど、態度へ出ているということだ。今回は私も口を添えるが、私の言葉だけで帝国の者たちを納得させられるとは思うな」

 竜の一団が皇城へ近づくと、地上の鐘が一斉に鳴らされた。

 第三皇女の帰還を祝う鐘なのだろう。しかし、その背に人間が乗っていることに気づいた者たちの間には、すぐにざわめきが広がった。

     ◇

 皇城へ到着した俺は、休む暇もなく謁見の間へ連れていかれた。

 左右に並ぶ柱は巨大な竜の骨から削り出されたものらしく、天井は人間の城より何倍も高い。広間の中央には銀色の鱗を模した床が続き、その両側に立つ竜族の貴族たちが、拘束された俺へ敵意のこもった視線を向けている。

 リシアは別室で傷の手当てと着替えを済ませ、今は白銀の軽鎧と青い外套をまとって俺の隣に立っていた。

「人間を皇城へ入れるなど、正気とは思えません」

「しかも、よりによって第三皇女殿下を罠へかけた者ですぞ。今すぐ首を刎ね、王国へ送り返すべきです」

「待て。首だけを返せば、人間どもは殿下を害した証拠を隠すだろう。拷問にかけ、誰の命令で動いていたのか吐かせねばならぬ」

 あちこちから飛んでくる声を聞きながら、俺は隣のリシアへ小さく尋ねた。

「あなたの国では、命を救った相手に拷問を勧めるのが普通なのか」

「聞こえているぞ。余計な挑発をするな」

「小声で話したつもりだった」

「ここにいる者の大半は竜族だ。人間より耳がよいことくらい想像しろ」

 前列に立っていた赤い角の貴族が、不快そうに俺を睨みつけた。

「殿下、この人間は、自分が置かれた立場を理解しておりません。今すぐ跪かせるべきです」

「必要なら跪くけれど、誰に対して跪けばいい。まだ女帝陛下は来ていないようだし、この場にいる全員へ順番に跪いていたら、話が始まる前に日が暮れる」

「貴様、我々を愚弄する気か!」

「分からないから聞いているだけだ。俺は竜帝国の礼儀を教わっていない。間違えるたびに侮辱だと決めつけるなら、正しい作法を先に説明してくれ」

 赤角の貴族が怒鳴り返そうとしたが、その前にリシアが一歩前へ出た。

「この人間を皇城へ連れてきたのは私だ。作法を教える時間を与えず、この場へ連行したのはヴァルガンであり、私の命令でもある。礼儀を知らぬことを罪とするなら、その責任は私へ問え」

「殿下が、そのような人間をかばわれる必要はございません。いかなる事情があろうと、人間は人間でございます」

「その人間がいなければ、私は今頃、王国の砦へ魔力を奪われ続け、死んでいた」

 リシアは広間にいる者たちを見渡し、黒い鎖に囚われた経緯と、俺が始原語を書き換えて彼女を救ったことを説明した。

 しかし、話を聞き終えても、貴族たちの反応は変わらなかった。

「人間が始原語を扱えるはずがありません。殿下は欺かれているのです」

「竜殺しの鎖は、王国が用意したもの。その鎖を解除したのも王国の人間であれば、最初から殿下へ恩を売るための筋書きだったと考えるべきでしょう」

「間者でないと主張するなら、記憶を調べればよい。人間の精神など、竜族の術者が本気を出せば簡単に砕けます」

 俺は黙って聞いていたが、最後の言葉にはさすがに口を挟んだ。

「記憶を見せること自体は構わない。ただし、精神を砕くという部分は断る。俺が無事でなければ、何を見たのか確認できないだろう」

「罪人に拒否する権利があると思うな」

「俺がいつ、竜帝国で罪を犯したんだ。人間であること自体が罪だというなら、裁判の真似をせず、最初からそう宣言すればいい」

「遥人、少し黙っていろ」

「さっきは自分の言葉で生き残れと言っただろう」

「あれは、必要なことを正しく説明しろという意味だ。居並ぶ貴族全員へ喧嘩を売れとは言っていない」

「俺は喧嘩を売っているつもりはない。売られたものを、そのまま返しているだけだ」

 リシアは片手で額を押さえた。

『この男を生かす方法を考えなければならないのに、どうして本人が次々と処刑される理由を増やすのだ。少しは私の苦労も考えてほしい』

 そこまで困らせるつもりはなかった。

 俺は一度息を吐き、広間に集まった者たちへ向き直った。

「俺が人間だから信用できないという意見は理解できる。俺も昨日まで人間王国の勇者一行に所属していたし、言葉だけで信じてもらえるとは思っていない。ただ、俺を殺せば、竜殺しの鎖を誰が作ったのかも、奪った魔力を何に使うつもりだったのかも分からなくなる。殺すかどうかは、その情報を確かめてから決めても遅くないはずだ」

 今度は、すぐに反論する者はいなかった。

 俺の命を尊重したのではなく、情報を持っている可能性を認めただけだ。それでも、生き延びるためには十分だった。

 ところが、赤角の貴族は諦めなかった。

「この者が始原語を理解できるという証拠はございません。虚偽の情報で時間を稼ぎ、仲間が攻め込むのを待っている可能性もあります。殿下のお命を守るためにも、直ちに処刑すべきです」

「ならぬ」

 リシアの声が、広い謁見の間へ響いた。

 彼女は俺を隠すように前へ立ち、皇族の威厳を示すように顎を上げた。

「この人間は、私が雪原で得たものだ。竜族の古い法に従えば、戦場で皇族が自ら得たものの所有権は、その皇族へ帰属する。ゆえに、この者を私の許可なく傷つけることは認めない」

 広間が静まり返った。

 俺も、すぐには言葉が出なかった。

「少し待ってくれ。今、俺のことを何と言った?」

「黙っていろ」

「所有物と聞こえたんだけど、通訳の間違いか」

「間違いではない。おまえは私の所有物だ」

「人間として扱うと言っていなかったか」

「そのようなことは言っていない。生かすとは言った」

「ずいぶん大事な違いだと思うんだが」

「今は我慢しろ。後で説明する」

 リシアは表情を崩さなかったが、魂の声では必死に言い訳していた。

『ほかに助ける方法がなかったのだ。所有物と宣言すれば、少なくとも母上の判断が下るまで誰も手を出せない。こんな言い方をすれば怒るだろうが、後で謝れば……いや、謝ったら私が悪いと認めることになる。だが、どう考えても今回は私が悪いのではないか』

 謝罪を巡って一人で迷っている場合ではないと思うが、少なくとも、俺を守るために言ったことだけは理解できた。

 赤角の貴族が何かを言い返そうとしたそのとき、謁見の間の奥にある巨大な扉が開いた。

 広間にいたすべての竜族が、一斉に膝をつく。

 現れたのは、リシアとよく似た銀色の髪を持つ女性だった。見た目は三十代半ばほどだが、その青銀の瞳には、何百年もの歳月を生きてきた者だけが持つ重みがある。

 頭には竜の翼を模した黒銀の冠を載せ、深い青の長衣をまとっている。彼女が一歩進むたび、広間を満たしていた貴族たちの殺気さえ、押しつぶされるように静まっていった。

「人間一人の処遇を決めるために、ずいぶん騒がしいことだ」

 女帝ガルディアは玉座へ腰を下ろすと、最初に娘の傷を見つめ、その後で俺へ視線を向けた。

「リシア、おまえが人間を所有物として持ち帰る日が来るとは、母も想像していなかったぞ」

「母上、その言い方は誤解を招きます。この者は、そのような意味で連れ帰ったのではありません」

「では、どのような意味だ。この人間を生かすため、皇族の所有権まで持ち出したのであろう。人間嫌いのおまえが、そこまでする理由を聞かせてもらおう」

 リシアは一瞬言葉に詰まった。

 魂からは、『私にも、なぜここまでしているのか、うまく説明できない』という戸惑いが伝わってくる。

「この者が、私の命を救ったからです。受けた恩を返さず殺すことは、竜族の誇りに反します」

「それだけか」

「それ以外に、何があるとおっしゃるのです」

 女帝はわずかに目を細めた。

 娘の言葉をどこまで信じたのかは分からない。少なくとも、俺には女帝の魂語が聞こえなかった。聞こえるのは今のところリシアだけであり、その理由も依然として不明だった。

 ガルディア女帝は玉座から俺を見下ろし、静かな声で尋ねた。

「人間、名を名乗れ」

「如月遥人です。如月が家名で、遥人が名前になります」

「聞き慣れぬ名だな。リシアの命を救い、始原語を書き換えたという話は真実か」

「俺が鎖の命令を変えたのは事実です。ただし、一人でやったわけではありません。リシアが俺の言葉を信じ、受け入れてくれなければ成功しませんでした」

「自分だけの功績とは言わぬか。人間にしては珍しい」

「自分の功績を全部ほかの人間に奪われたばかりなので、同じことをする気にはなれません」

 女帝の口元が、ごくわずかに動いた。

 笑ったのか、それとも不快に思ったのかは判断できない。

「よかろう。おまえが真に始原語を理解できるのなら、帝国にとって利用する価値がある。しかし、虚偽であった場合、人間の間者を皇城へ入れた罪は、リシアにまで及ぶ」

「母上、この者の能力は私が保証します」

「保証する必要はない。本人に証明させればよい」

 女帝が片手を上げると、謁見の間の奥に、青白い光で巨大な門の姿が浮かび上がった。門の表面には見覚えのある始原語が無数に刻まれていたが、その多くが絡まり合い、苦しむような声を発している。

「これは帝都と北方領を結ぶ古代転移門だ。百年以上前から壊れたまま、帝国の術者が誰一人として修復できずにいる。明日の正午までに、なぜ動かぬのかを読み解け」

「読み解くだけでいいのですか」

「原因を見つけ、修復方法を示せ。成功すれば、おまえをリシアの管理下に置き、しばらく生かしてやる。失敗すれば、間者として処刑する」

 どうやら竜帝国での最初の仕事は、報酬ではなく自分の命を受け取るために働くことになるらしい。

 俺は隣のリシアへ顔を向けた。

「竜帝国でも、仕事を始める前に給料を確認するのは難しそうだな」

「今は給料を気にしている場合ではない。おまえが失敗すれば、私まで責任を問われるのだぞ」

「それなら、所有者として少しくらい手伝ってくれ。俺はあなたの所有物らしいからな」

「その言葉をいつまで根に持つつもりだ!」

 謁見の間に、リシアの怒声が響き渡った。

 周囲の貴族たちが驚いている中、女帝ガルディアだけは、久しく見ていなかった娘の表情を眺めるように、静かな目で俺たちを見つめていた。

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    第22話 名前を捨てた処刑人たち坑道の前後に灯った赤い明かりは、松明でも魔導灯でもなかった。暗闇の中を歩いてくる者たちが身につけた、白い仮面の眼窩から漏れている光だった。前方から十二人、後方からも十二人。全員が人間と同じ背丈をしているが、足音は不自然なほど揃っており、鎧の擦れる音まで一つに重なっている。まるで二十四人の兵士ではなく、一匹の巨大な生物が、前後から俺たちを挟み込もうとしているようだった。「王国最強の処刑部隊と言っていましたね。所属と能力を説明しなさい、アルベルト」ガルディア皇帝に命じられ、独房から連れ出されたアルベルトは、壁へ背を預けたまま処刑人たちを見つめた。「彼らに正式な部隊名はない。王国では無銘衛士と呼ばれていた。死刑囚、戦争捕虜、王家に逆らった神官や魔術師から、戦闘能力の高い者だけを選び、名前と過去を奪って作られた部隊だ」「あなたが作ったのですか」リシアの問いに、アルベルトはすぐ答えなかった。その沈黙だけで十分だった。「人間王国と最初に接触した頃、私は彼らの術式へ竜族の命令魔法を組み込む方法を教えた。戦争を長引かせている強硬派を排除するため、汚れ仕事を引き受ける兵が必要だと考えたからだ」「国を救うためなら、名前を奪った人間を道具にしてもよいと考えたのですね」「そうだ。そのときの私は、正しい犠牲だと思っていた」アルベルトは言い訳をしなかった。かといって、罪を認めたから許されるわけでもない。自分の過ちを正直に語る姿には、反省よりも、自分にはもう死ぬ以外に責任の取り方がないという諦めが滲んでいた。前方の処刑人たちが、同時に武器を抜いた。剣、槍、弓、鎖鎌。それぞれ異なる武器を持っているのに、構えるまでの動きには一切のずれがない。後方の十二人も無言で散開し、逃げ道を塞ぐ。「呼びかければ、名前を取り戻せるの?」フィーネが黄金の鐘の欠片を握りしめた。「無理だよ。この人たちの中から、名前が聞こえてこない」俺は処刑人たちへ意識を向けた。

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    第21話 皇帝を乗せた魔導貨車が、正面から突っ込んできた対向貨車の認証に使われている真名は、ガルディア・ヴァルドレイク。竜帝国皇帝であり、リシアの母親の名前だった。「認証名が使われているだけで、母上が乗っているとは限りません。皇族の真名を盗み、魔導具を動かす鍵として利用する術式があることは、ここまでの出来事で分かっています」リシアは冷静に言ったが、その手は俺の肩を強く掴んでいた。平静を装おうとしているのは、誰の目にも明らかだった。何より、俺には彼女の魂語が聞こえてしまう。『母上が乗っている。理由は分からないけれど、間違いない。これほど近くにいるのに、どうして竜血の気配を感じなかったの。兄上は、母上に何をしたの……』「フィーネ。向こうの貨車に乗っている竜が、ガルディア皇帝かどうか分かるか?」「名前までは分からないけど、お姉ちゃんとよく似た音がするよ。でも、お姉ちゃんより低くて、ずっと我慢してる音。大きな鎖が心臓に巻きついて、力を少しずつ吸ってるみたい」フィーネは耳を澄ませるように目を閉じたが、すぐにつらそうな顔で胸を押さえた。「向こうの竜、眠ってないよ。起きてるのに、動けないふりをしてる。それから、こっちの貨車が近づいてることも知ってるよ」「母上と話す方法はないの?」リシアがロランへ詰め寄ると、彼は運転台の認証板を確かめながら首を振った。「対向貨車との通信回線は閉じられています。こちらの制動術式も受けつけません。速度はさらに上がっており、このまま進めば、およそ四半刻後に合流地点で衝突します」「四半刻とは、どのくらいだ?」「正確な砂時計がありませんので断言できませんが、人間の会話で百を十回数えるほどです」十五分前後と考えてよさそうだ。その短い時間で、こちらの貨車を止め、対向貨車から皇帝を救い出さなければならない。失敗すれば、狭い地下坑道で二台の鉄の箱が正面から衝突する。俺は運転台の認証板へ手を置いた。古い魔導貨車に刻まれた命令は、ベルガ砦

  • 「通訳しかできない役立たず」と追放された俺、敵国の竜皇女に拾われて婚約者になりました    第20話 聖女は、勇者の所有物ではない

    第20話 聖女は、勇者の所有物ではない『遥人さん、助けてください。私の名前が、私の中から消えていきます』遠く離れた帝都にいるはずのセナの声が、左手の真銀の環を通じて聞こえてきた。もっとも、それはリシアの魂語ほど鮮明な声ではなかった。水の底から必死に呼びかけているように途切れ、耳を澄ませなければ言葉として拾えない。なぜセナの声が、リシアとの契約によって生まれた環へ届いたのかも分からなかった。ただ、聞き間違いで済ませられるような悲鳴ではない。「待ってくれ、セナ。今、そちらへ繋ぐ方法を探す」俺が左手に呼びかけると、リシアが不安そうに眉を寄せた。「セナの声が聞こえるの?」「ああ。ただし、魂語とは違う。君との繋がりに入り込んでいるというより、別の術式を通って届いているような感じだ」万象通訳で真銀の環に重なった術式を読み取ると、見覚えのある命令文が浮かび上がった。以前、王国がセナの身体へ埋め込んでいた殺害術式を解いたとき、俺は彼女の命を繋ぎ止めるため、その命令の一部を書き換えている。消えろ、という命令を、生きろ、という意味へ翻した。そのときに残った俺の力の痕跡を、何者かが逆に辿っているらしい。「怜央の中にいる奴は、セナの名前を奪うために、俺が書き換えた術式を利用している。セナが助けを求めるほど、俺との繋がりを見つけやすくなる仕組みだ」「つまり、あちらはセナだけではなく、あなたの名前まで引きずり出すつもりなのね」「たぶんな。俺が応じれば、向こうに居場所を知られる可能性がある」魔導貨車はまだベルガ砦の地下発着場に停車している。ここで俺たちの位置を知られれば、王都へ向かう唯一の道を塞がれるかもしれない。ロランも同じ危険に気づいたらしく、厳しい顔で俺を見た。「出発前に申し上げるべきことではありませんが、王都の追跡術師は、一度掴んだ魔力の痕跡を街道の果てまで辿ります。ここで聖女殿へ返事をすれば、地下貨車の存在も知られるでしょう。我々だけならともかく、王都を救うための一行が途中で捕らえられては、結果として何万もの命を

  • 「通訳しかできない役立たず」と追放された俺、敵国の竜皇女に拾われて婚約者になりました    第19話 母を救う者と、勇者を救う者

    第19話 母を救う者と、勇者を救う者「あの人は勇者のお兄ちゃんを器にしたんじゃないよ。勇者のお兄ちゃんの名前を食べて、自分が神崎怜央になろうとしてる」フィーネの言葉を聞いても、俺にはすぐ意味が理解できなかった。身体を奪うのではなく、名前を奪う。黄金の鐘が兵士たちに行っていたことを考えれば、始祖竜の力を盗んだ古代の王が何をしようとしているのか、想像できないわけではない。それでも、怜央の身体を乗っ取ることと、怜央本人になることの違いが分からなかった。「それはつまり、怜央の記憶まで食べて、本人のふりをするということか?」「それだけじゃないよ。名前には、その人が誰に呼ばれてきたのか、誰と会って、誰に好きになってもらって、誰を傷つけたのか、そういうものが全部くっついてるの。黒い冠の人は、それを食べて自分のものにしようとしてる。全部食べ終わったら、世界のほうがあの人を神崎怜央だと思うようになるの」フィーネは上手に説明できないことが悔しいのか、眉を寄せながら自分の胸を押さえた。「そうなったら、本当の勇者のお兄ちゃんは、最初からいなかったことにされちゃう。お兄ちゃんたちが覚えていても、会ったときには、どっちが本物なのか分からなくなるかもしれない」怜央を好きだったわけではない。むしろ、俺を追放したあいつを恨んでいないと言えば嘘になる。俺が雪原へ捨てられると決まったとき、怜央には止める機会があった。王命には逆らえなかった、仲間を危険にさらせなかった、俺なら一人でも生き延びられると思った。あとから本人が並べた理由には、それなりの事情があったのだろう。けれど、捨てられた側にとって、事情は傷を消す薬にはならない。助けたいという気持ちの隣で、俺を見捨てた人間のために命を懸ける必要があるのかという、冷たい声も聞こえていた。そんな自分を責めるほど、俺は立派な人間ではない。「遥人、顔色が悪いわ。鐘の影響が残っているのなら、少し休みなさい」リシアに言われ、俺は自分が強く奥歯を噛みしめていたことに気づいた。「身体は大丈夫だ。ただ、怜央を助けたいのかと聞かれたら、

  • 「通訳しかできない役立たず」と追放された俺、敵国の竜皇女に拾われて婚約者になりました    第18話 奪われた名前を、俺が呼び戻す

    第18話 奪われた名前を、俺が呼び戻す白衣の男が振り上げた槌は、鐘楼の窓から差し込む夕日を受け、刃物のような光を放っていた。一度目の鐘でさえ、広場にいた竜族の兵士たちは立っていられなくなった。二度目をまともに鳴らされれば、リシアだけでなく、ヴァルガンたちの命まで奪われる。そう理解していても、俺の腕の中ではリシアの身体から力が抜け続けており、彼女を地面へ置いて駆け出すことなどできなかった。「ずいぶん勝手な鐘だな。人の婚約者を奪うなら、せめて持ち主に断ってからにしてくれ」強がりではなかった。怖くないはずがないのに、俺の口から出たのは自分でも呆れるほど平凡な文句だった。白衣の男が槌を振り下ろす。その瞬間、俺たちの後方から炎をまとった長槍が飛んだ。槍は白衣の男には届かなかったものの、鐘を叩こうとしていた槌の柄を横から弾き、狙いをわずかに逸らした。「無駄口を叩く暇があるなら、彼女を守れ、通訳殿! 私が力を失っているからといって、婚約者候補の座まで譲ったつもりはないぞ!」片膝をついたアレクシオが、投げ終えた右腕を苦しそうに押さえていた。強気な顔を保ってはいるが、額には脂汗が浮かび、呼吸も乱れている。それでも彼は、俺たちを守るために残った力を使い切ったらしい。槌は鐘の中央から外れ、その縁を浅く擦った。澄んだ音ではなく、巨大な獣が喉の奥で呻くような音が砦中を這い回った。胸の内側を見えない手で掴まれたような苦しさに襲われ、地下から現れた兵士たちが一斉に顔を上げる。俺にも鐘の力は届いていた。ただ、リシアたちとは聞こえ方が違った。頭の奥へ押し込まれてきたのは痛みでも衝撃でもなく、意味を持った命令だった。――名を捨てよ。過去を捨てよ。己を捨て、王の器となれ。「違う……この鐘が奪っているのは、魔力だけじゃない」「お兄ちゃん、分かるの?」フィーネは俺の外套を握りしめながら、怯えた目で黄金の鐘を見上げていた。あれが父親の骨から作られたものだと知ったばかりなのだから、怖くて当然だ。それでも逃げずに俺のそばへ立って

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